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僕の最終目標は、子どもからお年寄り・障がい者も健常者も、みんなが笑顔になれる楽しくてしょうがない場所

ほうろく菜種油とは

ほうろく菜種油とは

菜の花といってもいろいろあるんです。見て楽しむ菜の花が12月の終わりから1月に咲く。そのあとでほろ苦い食用の菜の花が2〜3月に咲いて…芽を摘んで湯がいて酢みそ和えやおひたしでね。
油に適した菜種、つまり菜の花の種は最後です。4月第1〜2週が満開で種の収穫は6月半ばですね。うちが農家さんに契約栽培をお願いしてるのが、キザキノって品種。それとナナシキブっていう品種。僕が気に入ってるんでこの2種を作ってもらいます。収穫を終えて、ほうろく屋に集まってくるのは7月頃。順番に全国から届きます。

製造工程はあとで話しますが、干す、選別する、煎る、搾る、濾過する、以上!!です。
天日干しは、米の「はざかけ」、しらすとかと同じで干せば干すほど、搾った油が自然の力で黄金色に輝くんです。旨味もでる。工房の裏山に干場があってそこで干します。
選別は、農家さんもキレイに選別して送ってくれるんですけども僕はさらにやります。とうみ(唐箕)という70年ぐらい前の風力選別機でね。重たい種が下に落ちて軽いものは風で前に飛ぶだけ。重いイコールいい油がしっかり詰まっとる種なんです。この干しと選別で1日の作業。500kgの菜種なのでドラム缶2缶分です。

選別した、食用にならない菜種は別に搾ってチェーンソーのチェーンオイルなどに代用します。捨てません。
薪とかにするために山で木を切ったりするでしょ。石油由来の安価なチェーンオイルもあるんですけど、そのオイルが地面に落ちれば微生物を殺します。菜種油なら微生物のエサになる、肥料になる、結局は土に還るわけ。エコでしょ。あとは、油がいっぱい溜まったら福井の曹洞宗大本山永平寺に奉納します。常夜灯の油でね。感謝の気持ちというのかね、それだいじなんで…。
日本の職人の素晴らしさは、「勘」にあり!っていつも思う。

日本の職人の素晴らしさは、「勘」にあり!っていつも思う。

それで選別のあとは、ほうろく屋の屋号にもなっている「ほうろく釜」…鋳物の鉄釜ですが、これで菜種を低温焙煎します。この釜は先代の喜八郎が、大きさ、深さ、肉厚など上手に焙煎できるよう設計して西尾市の鋳物屋にオーダーしたものと聞きました。西尾は鋳物の産地で、昔、日本中に立っていた赤い郵便ポストね。西尾産はかなり多くのシェアがあったみたいで。
いま型から起こして「ほうろく釜」を復元させると何百万円かかるかな?だいじに使ってますよ。
薪で煎ると美味しくてサラサラの油がたくさん出てくるんです。

薪で煎ると美味しくてサラサラの油がたくさん出てくるんです。

1回の焙煎で菜種はたくさん入れません。入れるのは釜の4分の1ぐらいまで。ひと粒ひと粒まんべんなく煎るためです。1回の量は42〜43kgぐらいかな。いま見て貰っているとおり燃料は薪です。昔、横着してガスバーナーでやったら機械から出る油の味が全然違ってね。薪で煎ると美味しくてサラサラの油がたくさん出てくるんです。遠赤効果だと思うけど、いまは何があっても薪オンリーですわ。
想像が付くと思いますけど、焦げた種から搾った油は苦いです。だから菜種が生きてる範囲で焙煎しなきゃいかんわけです。ちょうどいい具合を導き出すのが僕の職人技ってことですね。
手で触る、目で見て、匂いを嗅いで、潰して…五感を駆使しての作業です。毎回条件が違うのでマニュアル化はできません。日本の職人の素晴らしさは、「勘」にあり!っていつも思う。

僕の油搾りのやり方は、圧搾法です。ただ同じ圧搾法でも、原油の湯洗い工程や遠心分離機かけてってところもありますが、うちは自然濾過で、その上澄みを詰めるだけ。そういう意味で、僕のと同じ油は誰も作れません。この技術を教えてくれた喜八郎は、もう天国に行っちゃってますから。いつかコミュニティの若いヤツにこの技を伝えたいです。でもそれは、やがて継いだその子の油になるはずです。いまのほうろく油は、僕とわかちゃんの油。喜八郎とたけ子の油とも違います。杉﨑学の油です。
ほうろく菜種油 杉﨑学 という人生

ほうろく菜種油 杉﨑学 という人生

僕の最終目標は、子どもからお年寄り・障がい者も健常者も、みんなが笑顔になれる楽しくてしょうがない場所、自分では「心の駅」って呼んでますけど、それをつくることです。6年前かな?自分で冊子にもしたんだけど、僕の夢はそこです。それがすべて。

僕は、油屋をやりたいわけじゃないんですわ。
油屋をやりたいわけじゃないっていうと、おかしな話になるけど、わかりやすくいうと「べつに油屋をやりたくない僕が、なんでこの油の復活に励んでいるか?」です。
僕、いま51歳です。これから何十年、生きられるか分からんですけど…僕の夢は、はじめに言ったコミュニティづくりなんです。「心の駅」っていうね。「心の駅」は、説明するなら、引きこもりの若者、軽度の精神障害の若者、いじめを苦に心に病を抱えてしまった若者…彼らを責任持って預かってですね。要は実体験を通じて世の中に戻ってもらう場で、その活動です。
もう27年も前かな。94年に西尾市の中学2年生、大河内清輝がいじめを苦に自ら命を絶った事件がありました。清輝は、僕の身内の子どもでね…当時ね、日本を震撼させる事件でした。連日連夜、報道されて、家族はもうマスコミ取材の嵐で憔悴してました。朝から晩まで撮影のライト浴びせられてね。残酷ですわ。
清輝は男坊主3人兄弟の真ん中で、彼のお兄ちゃんもそういう現実を見ちゃったからかそのあと心に病を抱えてね。うつ病っていうの?処方薬を飲んでたみたいだけど、ある日、弟の清輝と同じように部屋にロープを引っ張り込んでね、自ら命を絶ったんです。
一軒の家で未来のある男坊主2人が自分で命を絶つことのやりきれなさは言葉にはできません…その事件が、僕の生き方を決めたわけです。非常に悲しい…悲しいことでね。

僕は、ネットかSNSか何かでね、他人の情報をあたかも自分の考えのように、しかも上から目線でああだこうだ…そういう人間が大嫌いですわ。いじめ問題も、当時は高い壇上からああだこうだ言うやつがいっぱい居ましたけど、僕は現場でね、若者たちと触れ合って、互いの目を見て、彼らの心を強くできたらと願って、ちっちゃなコミュニティを立ち上げたんです。
彼らは非常に優しいんです。僕らなら気を使わないことでも気を使うから心がヘトヘトに疲れて、結果、引きこもる…僕はそう感じたんで、じゃあお年寄りと合体させてコミュニケーションの勉強をさせようって。でも何やろうか?朝市から始めようか!これがはじまりです。

「和郷(なごみ)朝市」って名前付けましてね。

いまでこそマルシェって市民権を得てますが、僕が始めた13年前はそんな言葉はありません。木枠と鉄枠でお店の骨組みつくってブルーシートで屋根張って、台風が来るとバーンと持ってかれちゃう…みたいなちゃちなお店でね。
それと当時は、露店商組合がまだブイブイいわせとる時代でね、道の端に卵の自販機を1台置いただけで「シノギよこせ」ですわ。お店のパイプ組んどると黒塗りのベンツがやってきてね、「ここで何やるだ?」と。いやこうこうこういう理由で市場やっとるって説明したら、「1ブース1,600円払え。」ですわ。「ちょっと待てよ!おじいちゃんおばあちゃんが1本80円の大根を3本売ってなんぼの店に1,600円?いい加減にしろよ!」ってね。素人が簡単には露店での販売ができない時代でしたね。

僕が、そういった活動をはじめるとね、若者と朝市やる活動ですね、まず反応してくれたのが人生の大先輩たちでした。勝手に!?活動に参加してくるわけです。「あんたそんな所に立っとらんと袋に入れてお金もらいなさいよ。」「売る野菜ないなら一緒に畑に穫りに行くよ。」…そんな調子ですわ。若者とお年寄りの協働が自然にできる場が生まれ、みんなが売り買いを楽しんでいる風景になるわけです。
道具のイメージ

先代。大嶽製油所の大嶽喜八郎と出逢う。

まあ、そんな活動をするなかで、たまたまコミュニティに来て手伝ってくれてたおじいちゃんがいましてね。その方が、「わしゃもう、油屋やめるわ。」「もう原料もないし、金にならんし、子どもらにこんな辛い思いさせたくないし…。」と喋ってる。このおじいちゃんが、菜種油づくりを教えてくれた先代。大嶽製油所の大嶽喜八郎です。
それ聞いて、「あなたの後継ぎになりたいわけじゃないけど、8時から5時まで、若者たちに体験をさせる場が欲しいんですわ。働かせて貰えんですか?」と話すと、喜八郎も、「そうか。どうせ辞めるつもりだから…。」と。つまりは承諾ですわ。それで、そうなりゃまず僕が仕事を覚えないかんとなって喜八郎に弟子入りしたわけです。
ここまでが、「僕は、油屋がやりたいわけじゃないんですわ。」ってことの説明で、ここからが、ご縁というんですかね、喜八郎の搾る油に惚れ込むことになる入り口の話です。不思議な出逢いですわ。

師匠の喜八郎と出逢った当時、喜八郎は80歳ぐらいだったかな。丁稚奉公に入ったんです。場所はここから(ほうろく屋から)ちょっと南に行くと三河湾があって、いまは3町合併しましたけど、当時は東幡豆町ってとこでね。大嶽製油所は、そんなちいさな町で、昭和24年に喜八郎夫婦で創業した油工場です。
昭和30年代ごろから日本も高度経済成長期ってことで、着るもん、住むとこ、食べるもん…何でもかんでも大量に早く安価に作るのがいいって時代になるでしょ?食用の油も薬品抽出法ってやり方が主流になります。ヘキサンって薬で抽出するんですが、ざっくり言えば、砕いた種を薬で溶かして油を根こそぎ搾り取る方法です。さらに脱色、脱酸、脱臭など精製の工程も加わって…効率よく安価な油ができるって話です。
この流れには、ちいさな町の油工場は太刀打ちできませんよね。収益なしで生活も苦しくなって、
1軒ずつ倒産していったんです。愛知県の資料で当時のことを調べたんですが、北は名古屋から東は豊橋、東三河管轄まで、家族経営のちいさな町の油工場は数えたら30軒ぐらい。それが経営難で1軒ずつ閉鎖、倒産していって大嶽製油所は、愛知県で残っていた最後の1軒でした。
僕は、たまたま、そこへ丁稚奉公に行くんですが、喜八郎から、「子ども3人学校出すのに夫婦2人でリヤカー引いて空き瓶を集めて売って…。」って話などを直接聞きました。そんなところに技術を習いに僕とパートナーのわかちゃんの2人が通いはじめたわけです。もちろん給料はいただきません。当然ですよね?技を教えてもらうんだから。
作業はほとんど手作業でね、菜種を運ぶのもバケツリレーみたいな。そうするとお昼にご飯が出るんです。喜八郎の奥さん、たけ子のまかない飯でね。「杉﨑君、わかちゃん、疲れたでしょ?ご飯食べていきなさい。」ってね。
そのたけ子のご飯が何故かぜんぶおいしいわけ。炒めもん、揚げもん、それと蒲郡のお雛さんのときに出す郷土菓子みたいな油菓子とか、他にも何でしたっけ?沖縄のお菓子?…サーターアンダギーか!そんなのが出てきて1つもハズレがない。とにかく美味しい。毎回、毎回おいしい。うちのわかちゃんの料理が下手なのか?バケツリレーで腹が減ってたからうまいのか?いろいろ考えましたよ。上手く言えないんですが、なんだか体がバリバリバリってシビれるおいしさです。

これは油がうまいんだ。喜八郎の油がうまいんだ。

ここで僕は、いまに繋がる大事なことに気づくわけです。いい油と、いい塩があれば料理はおいしくなる。しかも、胃もたれも、ゲップも、不快さもない…それが身体でわかったんです。「この油は凄いぞ!」ってね。ここからどんどん喜八郎の油の魅力にハマっていくことになります。
それまで、油屋っていうのは広い敷地でパイプラインが工場内に走っててね…近代的な設備というか、そんな環境で製品になるイメージしかなかった。こんなちいさな工場で油がね…しかも自然の力だけで作れちゃうなんてね。
この油づくりは、いま僕が受け継がないと消えるって想いも強くなってね…。スーパーで売られてる、薬品で抽出されたサラダ油ばっかりじゃいかん!でね、喜八郎に、「僕は、何十年かけてもこの油づくりを復活させます。」って約束したんです。いまでも覚えてます。そう言ったけど、もちろんあらゆる面で簡単なことじゃないわけです。技術的にも商売的にもね。僕の言葉を聞いたとき喜八郎が黙っとったね。黙っとる喜八郎の表情からいろんな言葉が伝わってきましたよ。

ある時、「この機械、持って行きなさい。」って。

この世には、お金になる、お金の臭いを嗅ぎつける、すごい能力を持ってる人って居るんです。僕が丁稚奉公に入る前のことですけど、喜八郎が辞めることをどこからか聞きつけた人間が4人ぐらいね、機械をものすごいお金で買わせてくださいとかいろんな話があったみたいです。でも喜八郎はすべて断ってたらしくて…そこの理由は何も知らんですけど、僕は、機械が欲しいとかじゃなくて、子どもたちの体験の場をつくりたくてっていうのがそもそもの動機だったんで。喜八郎も、お前に(継がせる)とか、そんな言葉は何もなかったけど、ある時、「この機械、持って行きなさい。」って。こっちも機械くださいとかどうのこうのじゃなくてね。いま思えば波長が合ったんじゃないのかな?こいつなら機械を分けてやってもいいんじゃないかって思ってくれたんじゃないかなと。
ほんとうのところはわかりませんけどね。
昔は、国策で日本も菜種をつくれ作れって、春になると、この地域も黄色いじゅうたんみたいな風景が広がってましたけど、僕が油を搾ろうと思った頃には作る人はいなかったです。原料がないわけ。こんどは、昔の同級生でなく、親や活動コミュニティの先輩が心配するわけ。杉﨑は頭おかしくなったと。世の中の油屋が、金儲けができず潰れていくときにね。「こんどは油屋やるのか!」って。「コミュニティ守れるのか?」「家族守れるのか?」って。
昔から暴走族だ、変態だ、気違いだって言われても、僕は屁とも思わんかった人間なんで、そこでみんなに言い切りました。「10年後、時代は変わる!」と。愛情込めた本物が受け入れられる時代が来るからって。

菜の花を咲かせることからはじめる!!って宣言してね。
原料の国産菜種がないなら、コミュニティの若者たちと耕作放棄地を開墾して菜の花を咲かせることからはじめる!!ってね。それで西尾市内に菜種畑をつくるんです。今や世の中の製油会社は、そのほとんどが遺伝子を操作した輸入キャノーラ種というね、一応は菜の花の種らしいんだけど、それで効率よく油をつくるわけだから、国産の菜種はほんとに絶えてたわけです。仮に僕が大金持ってても無理でした。ないものは買えないわけ。
ふつうなら契約農家さんを見つければいいんだけど赤の他人が「来年、ほうろく屋は10トン欲しいから作ってください。」ってお願いしても誰も作ってくれませんよね。信頼関係も何にもないわけですから。
だから、若者たちと耕作放棄地を開墾しながら、少しずつ少しずつ、この西尾市内から始めて全国の産地をまわるわけです。ほうろく屋の菜種を作って欲しいんです!って。僕には、こういう想いがあって、国産の菜種がないと商売できんだわ!ってお願いしてまわるんです。
そりゃ輸入のキャノーラ種を穀物屋から買って搾れば簡単な話でしたけど、海外の種には一切手を出さなかったです。僕は、「食を通して、みんなを元気にしたい。」ってところで、どうしてもブレたくなかったんで。

はじめて5〜6年は、ほとんど収入がなかったです。
いまは、北は北海道、その次が青森、富山、地元の愛知とね。気心の知れた契約農家さんもできて、ほうろく屋が一年間どれだけ搾っても大丈夫なだけの菜種が確保できるようになりました。13年かけて、ようやく原料確保も軌道に乗りました。はじめの頃は、正直、何度も心が折れそうになりました。何でこんなこと始めちゃったの?ってね。
仕事がないときは、山で木を切って燃やしとった。ほんとはいかんだけど…。
そうするとこんどは近所の人がね、杉﨑、頭おかしくなっちゃったって(笑)。                 

そんなこんなで、「頭おかしくなった。変態だ。」っていわれ続けた僕が、すこしは世の中に認めて貰えるようになったんですが、やり続けて良かったって思います。講演っていうと仰々しいですがお話会に呼ばれたり全国から工房見学に来てくれたり…お医者さんと知り合う機会っていうのも自然と増えまして…。
ある先生に、生き物って脳や内臓は多くの脂でできとるって聞かせて貰ってね。良質な脂は脳を活性化させたり解毒というか排毒してくれたりとね。これ単純に、「良質な油を摂ることは健康にいい!!」って話ですわ。
塩もそうです。ミネラルですよね。身体を作るのにだいじなのが油と塩です。いまこれがどっちも悪者になっちゃったでしょ?多分、お医者さんらは食べ物のだいじさを知ってます…僕の勘だけど食べ物で健康になれることをね。
大きな病院の院長さん、知り合いの方ですけど、定年退職されてまず何をやったか?夫婦で畑耕して野菜を作り始めたって。でしょ!わかってるんだって…この10年間で、ほうろく屋に対する目も、世の中の「食」への意識も変わったと思います。

ファンが生まれて支えてくれないと本物は生きていけないってことですわ。

笑い話というか、切実な話?というか…確かに「食」への関心は高まってきて時代も変わったんだけど、現場の課題はありますね。例えば、道の駅で、通りがかりのおばちゃんたちに試食どうぞ!っていうと、パッと食べて貰えます。
それで他の買いものに消えて、また戻ってくるわけ。何だ?と思うと、「美味しかったわ!」って声かけて貰えるわけ。ただ、油は買ってくれんの(笑)。それでまた別の日に、そのおばちゃんが来るわけ。今度は違うもん試食して貰うと、また「美味しい!」って。そうなってくると、買ってくれるようになる(笑)。

いまは、工房見学が最低でも月1回。一般の方に見てもらうんだけど…業者さんも希望があれば同じでね。
僕としては嘘も隠しもない現場を見て貰います。この数年は、かなりの回数、けっこうな人数の見学者を受け入れてます。やっぱこの目と目を合わせて、僕の思いをそのまま伝えるっていうのがだいじで、「買物は投票だ!」っていい言葉がありますよね。ファンが生まれて支えてくれないと本物は生きていけないってことですわ。
時間は、かかるように思えるけど、それがいちばんの近道ってことでね。

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